コラム

無知の知(1)「極めるという事」

友人はよく私に、好きな音楽を仕事に出来る事が羨ましいと言う。
私は、その言葉に頷きながらも内心、愛憎はコインの表と裏の様に、好きだからこそかえって難しく感じる事の方が多いのだと思う。
それは、ちょうど人間関係の築き方とも似ているのかも知れない。
互いにおいて、適度な距離感というものが必要なのだ。
しかしながら、私ぐらいの未熟者であると、まだ物事に対して客観的なスタンスを取るという事が容易でない。
好きという感情があれば尚更の事である。
距離が近すぎる為に、見えなくともよいものまで見えてしまうのだ。
それを美化してひとつの言葉に置き換えるとするなら、おそらく愛情となろう。
果たして私には、その変わる事のない愛情を生涯持ち続け、音楽と向き合ってゆく覚悟があるだろうか。
音楽家は、ある種の使命感から逃れられる事はない。

フランスの哲学者デカルトは、「我思う、ゆえに我あり」という命題を残した。
人間の意識が認識する現象は疑い得ない事実であり、自分が存在すると思う、その行為自体によって自らの存在を証明する事の意味である。

芸術に身を捧げるという事は、誰の、また何の為であるのか。
ただの自己満足に終始してはいないだろうか。
私は、その答えを探し続け、今日もまた楽器の前に向かう。

模索する中で、デカルトの命題の本質からは逸れるが、インスピレーションを受けて次のフレーズが浮かんだ。

「我ピアノ弾く、ゆえに我あり」

演奏をする、そして何かを表現して聴衆の心に訴えかけるという事。
その行為によって、自分自身の存在を証明出来るという所まで、いつの日か辿りつけたら・・・
そんなとてつもない願いを抱き続けている。

2010.11.05 22:30

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