コラム

偉大なる作曲家との対峙(3) ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

 ピアノを習い始めて間もない頃は、先生から毎週出される宿題を、ものの10分で終えてから、その後にえんえんと自分の憧れの曲の譜読みばかりやって、よく一日の楽しい練習(?)を終えたものだった。
そして、時が流れ、少しは技術も身に付いてきたかという所で、今度は、「いつしかコンサートの舞台で弾いてみたいレパートリー作り」なるものに、大きな興味を持ち始めた。
とは言っても、神童かともてはやされる様な、才能あるリトル・ピアニストには到底足元にも及ばない存在だった為に、予定のある筈がない演奏会を、ただ一人で勝手に想像しては、空想の世界で遊んでいただけなのであった。
ピアニストの何たるかも知らず、当時は、今の様に聴衆の前で弾かせて頂く事が、まさか現実になるとは、思ってもみなかった。

幼き頃の、この取るに足らない遊びから生まれた、レパートリーリストの中にあった曲の幾つかで、実は現在も大切に思って演奏させて頂いているものがある。
そのひとつが、モーツァルトの言わずと知れた超名作、「トルコ行進曲」である。
8歳の時からのレパートリーで、これこそ完全に手の内に入った、と言っても許される曲なのではないだろうかと思う。
時差ぼけであろうが、半分眠っていようが、他の事を考えていようが、何年もさらっていなかろうが・・・ 
このトルコ行進曲に関しては、いつでもどこでも演奏する事が出来る。
後ろを向いても、(私は鍵盤に背中を向けて、後ろ向きでピアノが弾ける、数少ない音楽家の一人であると自負している!)、メロディーと伴奏を間違える事は決してない。
本当に、弾く事だけは、簡単なのだ。
ただ、大人になってから思う事だが、歳を重ねる毎に、本当にモーツァルトの音楽の本質に、少しは近付けているのだろうか。
その問いは、私の中で大きくなるばかりである。

では、この天才の音楽の本質は、一体何であろうか。
人間の一生に繰り広げられる一連のドラマ、所謂生の営みの中で、人間が抱く全ての感情のうち、とりわけ悲しみや痛み、或いは心の隙間にある満たされざるものが、音の綾に浮き彫りになって表れている事を、モーツァルトのとりわけ明るく書かれた長調の作品の中で強く感じられる様に、私自身は思う。
優雅さ、気品に溢れ、そして純粋でシンプル、雲ひとつない空の様な明るさ・・・ 
これらの言葉の例えは、彼の本当に表現したかった、言い様のない「悲しみ」の化身であると感じるのだ。
だから、モーツァルトを弾くと、そして聴くと、この上なく悲しい感情が湧いてきて、何となく耳にしたくなくなってしまう。
泣きながら笑っている様な、ドイツ語圏で言われる「にも関わらず」のユーモアに通じるものが、そこにはあるのではないだろうか。

モーツァルトは、子供の頃は一番心に近い作曲家であった筈なのに、こうして今では何故か最も遠い存在になりつつある。
天才の苦しみを、いつしか少しばかりでも理解出来、自身がもっと成熟する頃には、またモーツァルトを愛せる様になっていればと願っている。


2013.09.24 22:40

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