コラム

より少ないのはより豊かである

ショパンは、「24の前奏曲」を彼が敬愛していた J.S.バッハの平均律集に影響され、作曲されたと言われていますが、ハ長調から始まる全調を使って作品が構成されているのが特徴的です。各曲では、余分なものがそぎ落とされ、ショパンの音楽のエッセンスが凝縮された形となっており、洗練された音の調べが魅力ですが、以前フランスの或る著名な音楽評論家が、「それはまさに俳句の様である」と言っていたのを思い起こします。
ショパンは、コンサートでは必ずしも24曲を一度に演奏する必要はないと語った様ですが、この各プレリュードで表現されるミクロコスモスが、24のまとまりとして提示された時、それらは壮大なマクロコスモスを形成し、まるで「ショパンの“生”とは何であったか」という哲学的な問いを、聴く者や演奏する者に投げ掛けるかの様です。
魂の叫びでもあるこの「24の前奏曲」が、彼のマスタピースのひとつに挙げられるという事に、異議を唱える者は誰一人としていないであろうと確信できます。

さて、先述のフランスの音楽評論家がショパンの作品を俳句に例えたセンスは素晴らしいですが、俳句と言えば「五・七・五」という十七音の洗練された日本の言葉の芸術であり、必ず句の中に季語を入れなければならないルールがあるというのが、非常に日本らしいのではないかと考えます。
例えば、我が国で衣替えが行われますが、欧米では各々がその日の気候に合わせて着たい物を着るというのが習わしとなっています。あちらでは、明確な四季の移り変わりを肌で感じる事が少し難しいですから、6月になったら半袖の服を、そして10月になったら長袖の服を、と言った暗黙の掟の様なものは存在せず、何を着るかは、一年を通して個々の体感温度に委ねられているのですね。つまり、TPOさえわきまえていれば、何を着ても自由であるという事です。
パリに移り住んで間もない頃は、よく初夏に冬の革ジャンを着ている人を街で見掛け、少し驚いていたものですが、衣替えという習慣がない事を友人から教わり、なるほどと納得しました。

さて、俳句には季語が欠かせない訳ですが、夏の季語で私が好むものに「甘酒」があります。
甘酒は寒い時期に体を温めるために飲む物ではないかしら?と皆様は思われたかもしれませんが、実は江戸時代には冷たい甘酒で暑さを凌いでいたという歴史がある事から、夏の季語となっている様です。
甘酒の種類は数多(あまた)あり、あちらこちらで売られていますが、中でも獺祭のアルコール0%の甘酒は下戸の私にも親しみやすく、頂く機会が多い飲み物です。温かくても冷たくても美味しいので、このすっきりとした甘さの甘酒が、口に含んだ瞬間に何とも言えない幸福を味わわせてくれます。

祖父は、アマチュアではありましたが、俳句を嗜み、句会で披露しつつ、日々技術を磨きながら、晩年を過ごしました。
祖父自身が句を選び、父がまとめたものを遺句集として出版しましたが、その小さな本が祖父の故郷の図書館に置いてあるという事を数年前に知り、嬉しく有難く思いました。
もしかしたら、実際に手に取って読んだ方がいらっしゃるかもしれませんが、天国の祖父は心から喜んでいるだろうと、深く感謝しております。
対する孫の私は、俳句を「読む」のは好きですが、「詠む」というのはなかなかに難しく、ハードルが高いと感じます。
しかし、同じ「五・七・五」には川柳もあり、こちらはもっと気軽に楽しめますし、何よりユーモアや風刺を表現できますので、面白い事が好きな私自身にはより身近に思われます。(或る川柳のコンテストに応募し、小さな賞を頂いた事は、ささやかな自慢です…。)

一日一句でも作っていましたら、才能は乏しくとも、継続は力なりで、言葉のセンスも多少は磨かれてくる様に期待しますが、それらをしたためて、オリジナルの日めくりカレンダーでも作成し、日々笑って過ごしていれば、コロナ・ブルー(=新型コロナが原因で気持ちが滅入る事)の対処のひとつになるかもしれません。
俳句や川柳は、小説の様に言葉がふんだんに綴られる事なく、十七音という限られた言葉の世界の中で作者の嘆き、憂い、喜び、そして風刺等を表現する芸術です。読む人にさりげなく心の内を打ち明ける事もできるのですから、まさに 「Less is more=より少ないのがより豊か」を象徴していると言えましょう。

2022.05.19 23:55

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