コラム

優しさについて考える

優しさ、と聞くと、それは人の物腰であったり、表情であったり、また醸し出される雰囲気であったり、表現できる幅は広いと感じる。

例えば、この人は優しい、と言うと、恐らく性格の事を指しているのだろうと思うが、厳密に考えればどの様な意味になるのか。

例えば日本人は、和やかである事が好きで、穏やかに振る舞い、まずは周りの人々との協調性を重んじる。
そして、ハーモニーを乱すという事は、極力避けたいと考える人種だ。
それでは、優しい、は笑顔を作る気分でもないのに、愛想笑いであるとか、ひとつのコミュニケーションのパフォーマンスとしての評価の言葉であるのか。

否、最近になって、「優しい」の言葉の意味が、漸く少しだけ見えた様な気がした。

心の状態がとげとげしくあらず、常に余裕のある状態。
即ち寛大であって、許すという事を学習して、不完全な自分やまた他人をも赦せるという状態にある、実は奥の深い、達観した境地なのではないか、という考えに到達した。

少しずつ年を重ねると、自分の至らなさというものが、若い頃よりも如実に見えてきて、赦せるという許容の範囲も、自然に広くなるのだと感じる。
これが、老年期には、人間が丸くなり、穏やかな表情になると言われる所以なのかもしれない。

しかしながら、妥協という言葉にある様に、理想でない不完全さを受け容れる、その自分を許すという事は、なんとまた難しい事であろうか。
ひたすらエゴイスティックに完全主義を求め、自己完結する方が、かえって人生は容易いのかもしれない。

ただ、いつも自分の周りに存在する、不完全で至らない自身を受容してくれる「優しい」人々に、ひたすら感謝の気持ちと申し訳無さでいっぱいであるばかりだ。

2014.09.28 23:15

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