コラム

対話の中で“言葉”に期待するものとは

日々目を通す新聞の一面の小さなスペースに、密かに楽しみにしている記事があります。
それは、日本の哲学者である鷲田清一氏によって取り上げられた“言葉”を紹介するものですが、そこにはまた卓越された氏の言葉による解釈が加えられ、深い考察がなされた「折々のことば」というシリーズです。
毎日、ひとつないし複数のフレーズが掲載されますが、様々な国の言い習わし、また有名・無名、匿名を問わず、心に問い掛ける様な語句を新たに知る事となり、読者も鷲田氏に導かれて考えに耽る、そしてひとつひとつの言葉をじっくりと味わう事が可能となります。
鷲田氏の著書には、私自身は大変惹かれており、恐らく全てを拝読したのではないかと思いますが、何層にもなり、独特の存在感を生み出している氏の言葉の用い方、また特別な語法にはいつも圧倒されています。

最近は、人と対話をする際に、改めて言葉の難しさというものを感じます。
相手の言った事を、本当に(相手の願う様に)自分は理解出来ているのか。
また、自分の放った言葉は、果たして望む通りに相手に伝わっているのか。

言葉に対する夫々の“期待”が大きい事とは裏腹に、得てして言葉はひとつの独立した存在であり、例えば人が十人いたとすれば、そこには十様の感じ方や解釈が生まれます。

殊に、日本では「沈黙は金」の教えがあり、多弁は称されるものではなく、より慎ましくある事が美しい姿勢とされています。
ふと考えてみると、常に調和を重んじる社会の中で、互いが言葉を発するという行為が少なからず摩擦を生むという事を知ると、寡黙を保ち半ば心の内を探りながら、気持ちを察する双方の努力により、波風を立てず円滑に物事が運ぶ様心掛ける事は、きわめて賢明な処し方であると言えるのではないでしょうか。
この様な方法は非常にスマートであり、面倒を避ける忙しい日本人の時間短縮にもなるでしょうが、一方で人の“真の思い”というものを知らずにその場を取り繕い、或いは知りたいという欲求もあまりなく済ませているのだとしたら、それは大変消極的であり、残念である事の様に思います。

例え少々衝突する事になったとしても、対話の重要性や有益性は多くあると、個人的には感じています。或るテーマについて批判し、思いを戦わせる議論の場とはまた違った面白さ、人と交わる事の難しさや本質を学べる故です。

自分とは違う異質のものを知る、つまり他者について知るという事が、動物以外の唯一人間に与えられた言葉によって叶えられる訳ですから、哲学の国フランスの人々が、コミュニケーションで最も大切にするものが対話であり、「まず言葉在りき」の理由はそこにあるのでしょう。
そう意識して、言葉を投げ掛けてみると、相手への伝わり方も自ずと変わってくるのかも知れません。
そして、言葉はそれ自体で独立した力を持つものですが、同時にまたそれが誰によって発せられたかにも影響されます。
その様な、言葉は考えているより、遥かに難しいものの様です。










2016.07.31 23:55

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