雨の曲にまつわる小さな思い出
雨のヨーロッパでは、何故か傘をさしている人をほとんど見掛けません。
もし曇りの日に、折りたたみ傘でも持っていれば、「うわー、すごいね…(苦笑)」と周りに言われ、何か間違った事をしているかしら…? と私は不思議に思ったりもしました。
或る時、友人に理由を尋ねてみると、「だってすぐに止むから、濡れても大丈夫じゃない?」という答えが返ってきました。確かに、日本の梅雨の様に、朝から晩まで降り続く雨というのは、あちらでは見た事がありません。
ところが、生活をするうちに、傘を持たなくとも良い本当の理由が判ってきました。
それは、結局の所、ヨーロッパと日本の「湿度の違い」なのではないだろうか、という事です。
土砂降りの雨に見舞われて、ずぶ濡れになったとしても、あちらでは、髪の毛も着ている洋服も、しばらくすれば、まるで何事もなかったかの様にすっかり乾いてしまいます。また冬であっても、曇りや雨の日の朝に洗濯物を部屋に干して出掛ければ、夜に帰宅した時には、見事に乾いているのです。この様な事は、日本では起こり得ません。
イギリスの友人は、出張で東京を訪れた際、夕立に遇い、「(イギリスでは誰も買わないであろう)傘が、何故コンビニで何本も売られていて、ニーズがあるのかがよくわかった!」と話していました。彼女は、濡れた衣服をコインランドリーでわざわざ乾かさなければならないはめになり、苦労した様です。
さて、雨にまつわるクラシック音楽の作品は幾つかありますが、その中でもショパンの「雨だれの前奏曲」や、ドビュッシーの「雨の庭」、またブラームスが自身のリートを用いて書いた「ヴァイオリン・ソナタ第1番 “雨の歌” 」等は非常に知られています。
しかし、我が国にも、有名なピアノの小品があるのをご存じでしょうか?
それは、20世紀を代表する偉大な作曲家、武満徹さんによる「雨の樹 素描」という作品です。
これは、ⅠとⅡの2曲から成りますが、ご本人は作品について、「雨や海等の形を持たない水は、水のかりそめの姿を与えられている。そして音楽もまた、形を持たない音に対して作曲家がかりそめの形を与えたものなのである」と語られています。
音が鳴った瞬間、消え入る音に耳をすます、そしてその音が消えた後の余韻を、奏者が聴衆と共に味わう、と言った独特の音楽の構造は、まるで禅か哲学の様でさえもあります。
この「雨の樹 素描」は私自身も敬愛する曲で、これまでにコンサートでも度々弾かせて頂きました。
イギリスでは、この武満徹さんの作品は大変人気があり、演奏の折にはよくリクエストされたものです。
ロンドン留学中は、少し面白い名前の Goodenough Collegeと名付けられた(※グッドイナッフは人の名前です)、大学院生や研究者のためのレジデンスに住んでおりました。大変歴史のあるカレッジで、エリザベス女王が名誉総裁を(現在も)務められ、特別記念行事が開催される際には、わざわざカレッジまでおみえになり、学生達とも交流を図られます。
イギリス連邦共和国をはじめ、世界の数十カ国から、様々な学部の院生や研究者が集まり、生活を共にするのですが、自身が籍を置いていた英国王立音楽院とはまた別の、第二の教育機関、いわば学びの場とでも言うべき、大変国際的かつ理想的なレジデンスでした。
医学部や法学部で学ぶ学生達は、皆博識であり、話をすれば音楽馬鹿である私に様々な事を教えてくれました。時には、私も負けじと、「日本には、皆が言うフジヤマ(=富士山)、ゲイシャ(=芸者)、ミシマ(=三島由紀夫)以外にも、魅力的なものはたくさんあるのよ!(※欧米の人にとって、日本を表す典型的なものがこれらなのです…)」と、拙い英語で一生懸命説明していた事が、懐かしく思い起こされます。
さて、そのカレッジでは、季節の節目ごとに大きなパーティーが行われ、その合間には交流を深めるべく、更に小さな催しが毎週の様に開かれていました。
或る日の夜遅く、部屋に戻ると、ドアと床の間に小さな手紙が挟まれている事に気付きました。差出人は、同じ階に住むイギリス人の聡明な弁護士の女性です。「今度のニューイヤー・パーティーを企画するメンバーの一人なのだが、もし良かったら、あなたに日本の音楽を含めたプログラムで演奏してもらえないだろうか?」という依頼の内容でした。邦人作品を紹介できるとは、嬉しい機会ですので、「ぜひ、喜んで引き受けます!」と返事を書いて、翌日、その女性が私にしてくれた様に、彼女の部屋のドアの下からそっと手紙を滑らせておきました。
では、何を選曲しようかしら… 参加者の大多数は音楽が専門ではない人達だから、やはり「さくらさくら」か、或いは坂本龍一さん等の曲が親しみやすくて良いだろうか、と初めは思いました。しかしながら、否、敢えてクラシックの現代作品の王道で行ってみようと決心して、「雨の樹 素描Ⅱ」を選ぶ事としました。
そして、当日は、ショパンの作品と併せて、この小品を演奏しました。「武満徹が尊敬していたフランスの作曲家オリヴィエ・メシアンの追悼コンサートのために作られた曲をこれから弾きます。彼の友人であった大江健三郎の短編小説 “頭のいい雨の木” から、インスピレーションを受けて創作されています。皆さん、ピアノという楽器から鳴り響く音を聴こうとするのではなく、どうかその音が消えた後に耳を澄ませながら、音の先の静寂の中に在るもの、それが武満徹の伝えたかったものであるという事を理解して、作品を鑑賞してみて下さい」、という解説をさせて頂きました。すると、会場にいた全員が飲み物や食べ物を口に運ぶ動作をわざわざ止めて、本当に全く音を立てず静かに聴き入ってくれました。
パーティー終了後には、感想を伝えに来た参加者も多くおり、作品に興味を持ってもらえた様で、私も非常に嬉しく思いました。演奏のために声を掛けてくれた弁護士の女性も大変喜んでくれ、好評を頂けた事は何よりでした。また、演奏以外に、自身もパーティーを心から楽しむ事が出来ました。
武満徹さんの作品が、無調であり、旋律も無いと言った様な、いわゆる現代音楽としての難解さがあるにも関わらず、この様に世界で広く愛される理由には、モデストで日本的なコンセプトを持ちながらも、欧米の方々にも何か共感し得る特別なものを備えているという事があるのではないかと考えられます。
貴重な経験をさせてもらった、若い学生時代の良き思い出です。
もし曇りの日に、折りたたみ傘でも持っていれば、「うわー、すごいね…(苦笑)」と周りに言われ、何か間違った事をしているかしら…? と私は不思議に思ったりもしました。
或る時、友人に理由を尋ねてみると、「だってすぐに止むから、濡れても大丈夫じゃない?」という答えが返ってきました。確かに、日本の梅雨の様に、朝から晩まで降り続く雨というのは、あちらでは見た事がありません。
ところが、生活をするうちに、傘を持たなくとも良い本当の理由が判ってきました。
それは、結局の所、ヨーロッパと日本の「湿度の違い」なのではないだろうか、という事です。
土砂降りの雨に見舞われて、ずぶ濡れになったとしても、あちらでは、髪の毛も着ている洋服も、しばらくすれば、まるで何事もなかったかの様にすっかり乾いてしまいます。また冬であっても、曇りや雨の日の朝に洗濯物を部屋に干して出掛ければ、夜に帰宅した時には、見事に乾いているのです。この様な事は、日本では起こり得ません。
イギリスの友人は、出張で東京を訪れた際、夕立に遇い、「(イギリスでは誰も買わないであろう)傘が、何故コンビニで何本も売られていて、ニーズがあるのかがよくわかった!」と話していました。彼女は、濡れた衣服をコインランドリーでわざわざ乾かさなければならないはめになり、苦労した様です。
さて、雨にまつわるクラシック音楽の作品は幾つかありますが、その中でもショパンの「雨だれの前奏曲」や、ドビュッシーの「雨の庭」、またブラームスが自身のリートを用いて書いた「ヴァイオリン・ソナタ第1番 “雨の歌” 」等は非常に知られています。
しかし、我が国にも、有名なピアノの小品があるのをご存じでしょうか?
それは、20世紀を代表する偉大な作曲家、武満徹さんによる「雨の樹 素描」という作品です。
これは、ⅠとⅡの2曲から成りますが、ご本人は作品について、「雨や海等の形を持たない水は、水のかりそめの姿を与えられている。そして音楽もまた、形を持たない音に対して作曲家がかりそめの形を与えたものなのである」と語られています。
音が鳴った瞬間、消え入る音に耳をすます、そしてその音が消えた後の余韻を、奏者が聴衆と共に味わう、と言った独特の音楽の構造は、まるで禅か哲学の様でさえもあります。
この「雨の樹 素描」は私自身も敬愛する曲で、これまでにコンサートでも度々弾かせて頂きました。
イギリスでは、この武満徹さんの作品は大変人気があり、演奏の折にはよくリクエストされたものです。
ロンドン留学中は、少し面白い名前の Goodenough Collegeと名付けられた(※グッドイナッフは人の名前です)、大学院生や研究者のためのレジデンスに住んでおりました。大変歴史のあるカレッジで、エリザベス女王が名誉総裁を(現在も)務められ、特別記念行事が開催される際には、わざわざカレッジまでおみえになり、学生達とも交流を図られます。
イギリス連邦共和国をはじめ、世界の数十カ国から、様々な学部の院生や研究者が集まり、生活を共にするのですが、自身が籍を置いていた英国王立音楽院とはまた別の、第二の教育機関、いわば学びの場とでも言うべき、大変国際的かつ理想的なレジデンスでした。
医学部や法学部で学ぶ学生達は、皆博識であり、話をすれば音楽馬鹿である私に様々な事を教えてくれました。時には、私も負けじと、「日本には、皆が言うフジヤマ(=富士山)、ゲイシャ(=芸者)、ミシマ(=三島由紀夫)以外にも、魅力的なものはたくさんあるのよ!(※欧米の人にとって、日本を表す典型的なものがこれらなのです…)」と、拙い英語で一生懸命説明していた事が、懐かしく思い起こされます。
さて、そのカレッジでは、季節の節目ごとに大きなパーティーが行われ、その合間には交流を深めるべく、更に小さな催しが毎週の様に開かれていました。
或る日の夜遅く、部屋に戻ると、ドアと床の間に小さな手紙が挟まれている事に気付きました。差出人は、同じ階に住むイギリス人の聡明な弁護士の女性です。「今度のニューイヤー・パーティーを企画するメンバーの一人なのだが、もし良かったら、あなたに日本の音楽を含めたプログラムで演奏してもらえないだろうか?」という依頼の内容でした。邦人作品を紹介できるとは、嬉しい機会ですので、「ぜひ、喜んで引き受けます!」と返事を書いて、翌日、その女性が私にしてくれた様に、彼女の部屋のドアの下からそっと手紙を滑らせておきました。
では、何を選曲しようかしら… 参加者の大多数は音楽が専門ではない人達だから、やはり「さくらさくら」か、或いは坂本龍一さん等の曲が親しみやすくて良いだろうか、と初めは思いました。しかしながら、否、敢えてクラシックの現代作品の王道で行ってみようと決心して、「雨の樹 素描Ⅱ」を選ぶ事としました。
そして、当日は、ショパンの作品と併せて、この小品を演奏しました。「武満徹が尊敬していたフランスの作曲家オリヴィエ・メシアンの追悼コンサートのために作られた曲をこれから弾きます。彼の友人であった大江健三郎の短編小説 “頭のいい雨の木” から、インスピレーションを受けて創作されています。皆さん、ピアノという楽器から鳴り響く音を聴こうとするのではなく、どうかその音が消えた後に耳を澄ませながら、音の先の静寂の中に在るもの、それが武満徹の伝えたかったものであるという事を理解して、作品を鑑賞してみて下さい」、という解説をさせて頂きました。すると、会場にいた全員が飲み物や食べ物を口に運ぶ動作をわざわざ止めて、本当に全く音を立てず静かに聴き入ってくれました。
パーティー終了後には、感想を伝えに来た参加者も多くおり、作品に興味を持ってもらえた様で、私も非常に嬉しく思いました。演奏のために声を掛けてくれた弁護士の女性も大変喜んでくれ、好評を頂けた事は何よりでした。また、演奏以外に、自身もパーティーを心から楽しむ事が出来ました。
武満徹さんの作品が、無調であり、旋律も無いと言った様な、いわゆる現代音楽としての難解さがあるにも関わらず、この様に世界で広く愛される理由には、モデストで日本的なコンセプトを持ちながらも、欧米の方々にも何か共感し得る特別なものを備えているという事があるのではないかと考えられます。
貴重な経験をさせてもらった、若い学生時代の良き思い出です。
2020.07.29 23:55
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