コラム

主観と客観の間にある理想について

先日、東京大学の主催による、或るセミナーに参加をさせて頂く機会を得た。
歴史の重みを感じさせる本郷のキャンパスで、著名な先生方の貴重なレクチャーを拝聴し、心から学ぶ事の多いと感じられる、大変充実した時を過ごさせて頂いた。
その折にも、考えさせられた事は、我々の身の回りで起きる出来事は、果たして直接自らに関わる事なのか、或いは周辺で発生してはいるが、それは他人の事としていっさい無関係であるのか・・・
その様な分類を、我々は無意識のうちにしている事が多く、半ば処理しているではないかと思い、いささか悲しくも思う。

私自身の事は、一人称として。
近しく大切な家族や、友人の事は、二人称として。
そして、文字通り、他人の事として「片付ける」時は、三人称として・・・ 
同じ出来事を、人称の変化によって、全く異った目で見、個人の解釈を持ち、様々に反応を示しながら、心に感情を抱いている。
その考えは、諸外国語では、敬語として使用する距離感を表す為にも存在しており、自分自身が相手をどの様に思うかで、実際に人称の使い分けをしたりする。

以前から、柳田邦男氏の著書を愛読しており、共感させて頂く所が大きいのは、「二.五人称の認識」という見解である。
他人の事としてではなく、だからと言って近付き過ぎる事のない、然るべき客観性を持つ理想的な「距離感」についてである。

指導者が生徒を教育する時、或いは医師が患者に治療を施す時、または近隣の独居高齢者と接する時、等、例を挙げれば限りが無いが、二人称だとすると、深く入り込む為に、干渉してあまり良い事にならず、また三人称ではお互いの理解は得られづらいし、恐らく誤解も生じるが、その間の二.五人称では相手を思い、かつ自分ではない人として尊重しながら、痛みを分かち合える事が大切であるとする考えに、いつも大変納得させられる。

認識という点からは少し逸れるが、解釈において、クラシック音楽の演奏に携わる人間は、様々な時代の様式に則って、作品を出来る限り自分に引き寄せて、あらゆる表現を可能にし得る様、日々研鑽を行っている。
よくコンクールやレッスンで聞かれる言葉に、「手のうちに入った演奏」という評価は、大きな賞賛として存在する。

では、その先に求められるものは・・・ 歴史に残る名演奏家であるほど、多分に熱のこもったパフォーマンスで魅せながら、実は前もって入念に準備された、作品に対する明確な分析と、オリジナリティーを備えた確固たる解釈があり、決して作曲家自身が表出したいとする感情や理念を、奏者がそのままなりきって(霊媒者の如く)露にする事ではなく、それらを冷静そのものに「表現」して見せるという技で、いかに聴衆に作品の持つ深いメッセージを伝えられるかという、真の「芸術」である。

純粋に、演奏技術だけをとっても、常に冷静に遠くから見つめる事が肝心で、かのルービンシュタインは「コンサートの間は、客席にもう一人の自分が座って、舞台の自分自身が発する音を常に聴いている様にしなければならない」という言葉を残している。アーティストは自己に埋もれる事なく、一見矛盾しているが、演奏では終始一貫した客観性を持って音楽に没頭し得る事が、一流の演奏家の証だ、という訳である。

ともあれ、何事においても、いかに適切な距離感を持って接するかという事を考えた時、また自分ではない人の行い方を見た時、そこから人間の本質的な部分というものが見て取れるであろうし、それは人間性の核を形成する哲学として、個人の生き方を形成する大切なプロセスになるのではないかと考えている。

2013.08.29 21:15

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