聴覚が鋭くなるとは…
楽器奏者にとり、注意深く音を聴取できる力が要(かなめ)であるのは言うまでもありませんが、例えば世界的に有名なパーカッショニストのエヴェリン・グレニーは、中途失聴でありながらも、体全体で音の振動を感じる事で演奏を行い、他の奏者と素晴らしいアンサンブルも奏でられてしまうほどの、驚異的なアーティストが世の中には存在します。
パリに住んでいた或る日の事、午前中に自宅の電話が鳴り、出てみると受話器の向こうからは全く声がしないので、何度か「アロー?(フランス語でもしもしの意味)」と繰り返しましたが、相手は無言でしたので、もしやいたずら電話かも?、と思いながら、受話器を置きました。
或いは、電話が故障したのかしら、とも考え、その時は大して気にも止めませんでした。
同日の午後、再び電話のベルが鳴り、出てみると、今度は蚊の鳴く様な声で、相手が何か話しているのが聞こえてくるのですが、その内容が全く理解できないほどの声の小ささなのです。
「ちょっとお電話が遠いので、もう少し大きな声で話してもらえませんか?」、と言ってはみましたが、その声のボリュームは変わりません。しかし、相手は何かを話し続けているので、もしかして、自分の耳の方がおかしいのかもしれないと思い、咄嗟に受話器を受けていた左耳から右耳に変えてみると、驚いた事に、鮮明に相手の声が聞こえてきました。
その時、私は普通に話をしながらも、少しずつ血の気が引いてゆくのがわかりました。
昨日まで全く問題なく聞こえた左耳が、突然聞こえなくなってしまうなんて… 一体何の病気だろう、このままベートーヴェンの様になってしまうのか… 悪い想像が膨らみ、少し恐ろしくなってきました。
電話を終えた後も、そのまま座って考え込んでしまっていたのでした。
当時のパートナーが仕事から帰宅すると、顔色の悪い私を見て、「どうしたの? 何かあった?」、と尋ねるので、真っ先にその事を告げました。
「聴覚は音楽家にとって生命の次に大切なくらいなのだから、とにかく早く診てもらった方が良い」、と彼は深刻な顔で言いました。
はじめは、日本語にも対応できる、パリ郊外にある私立の病院に行ってみようかとも考えましたが、彼の父親は心臓外科医でしたので、フランス国内のあらゆる科の優れたドクターを知っているというので、早速事情を話してもらい、父親が勧める先生の病院の受診予約を取ってから、伺う事にしました。
数日後、病院ではまず聴力検査を受け、確かに左耳は聞こえていないという結果を伝えられました。
診察をして頂いた所、ヨーロッパではあまりする習慣がないという耳掃除を、私が綿棒や耳かき等で日頃行っており、耳は清潔に保たれている、またこれと言った特別な病気も考えられないが、「まあ留学生活は大変な事も多いだろうし、日々のストレスもあるでしょうから、そうしたものから生じた難聴かもしれませんね。まずは試しに耳の洗浄をしてみましょうか」、という事になりました。
それは、耳から洗浄液を勢いよく流し込み、文字通り耳をしっかりとクリーンにするという治療です。
この様に言うと悪いですが、いささか荒療治(?)にも感じられる治療で、先生は「鼻もだいぶ痛くなりますが、ちょっとの間、我慢して下さいよ」、と仰いました。
さすがに耳の奥に液体を流し込むのですから、その手技の間は、耳と鼻の痛みに激痛が走り、まるでプールで溺れかけた時の様な、呼吸の苦しささえ感じました。それを、両耳に施され、時間としては数分程度でしたが、何十分間の様にも思え、しかし何とか頑張って耐えました。
その治療の後は、どうなったでしょうか… なんと、全く聞こえなかった左耳が、以前の様にクリアに聞こえる様になったのです!
耳には本来自浄作用があり、日本人の様に、敢えて耳掃除をする必要はないそうなのですが、中には耳垢の性質のせいで、耳の奥の方に貯留してしまう人がいる、との説明を先生から受けました。結論としては、耳垢栓塞(じこうせんそく)という診断がなされました。
治して頂いたお礼を申し上げながら、「本当にベートーヴェンみたいになったら、私はこの先どの様にして生きてゆこうかと思い、悩みました」、と伝えると、「いや、そこまで悲観的にならなくとも良かったですよ。だって、第九の様な傑作が生まれたのは、彼の耳が全く聞こえなくなった後なのですから」、と微笑みながら、励まして下さいました。
こうして、私の難聴の症状は一瞬にして改善し、その魔法の様な治療によって、事なきを得ましたが、帰宅する道すがら、心の底から安堵するも、今度は反対に、その時から「両耳が聞こえ過ぎてしまって困る」という、何とも不思議で、そして不快な感覚が続く日々を、しばらくの間、過ごす事になりました。
例えば自らの髪の毛が耳に触れる度に、いちいち「ばさっ、ばさっ」と、まるで何か大きな物が耳にあたるかの様な、大音量となって聞こえてしまうのです。髪の毛1本1本のさらさらと揺れる音が、こんなにも大きく聞こえるとは…! クリーンになり、まっさらな耳は、いわば聴覚が冴えすぎた状態となったためで、それは生まれて初めて体験する感覚でした。
もしかすると、お母さんのお腹の中から出てきたばかりの赤ちゃんの耳は、周りの音もこういう風に聞こえているのかしら… 等と想像しながらも、耳垢も要らないものと言ったイメージがありますが、全くなくなってはしまっては少し困るものだ、と知り、大変勉強になった次第でした。
パリに住んでいた或る日の事、午前中に自宅の電話が鳴り、出てみると受話器の向こうからは全く声がしないので、何度か「アロー?(フランス語でもしもしの意味)」と繰り返しましたが、相手は無言でしたので、もしやいたずら電話かも?、と思いながら、受話器を置きました。
或いは、電話が故障したのかしら、とも考え、その時は大して気にも止めませんでした。
同日の午後、再び電話のベルが鳴り、出てみると、今度は蚊の鳴く様な声で、相手が何か話しているのが聞こえてくるのですが、その内容が全く理解できないほどの声の小ささなのです。
「ちょっとお電話が遠いので、もう少し大きな声で話してもらえませんか?」、と言ってはみましたが、その声のボリュームは変わりません。しかし、相手は何かを話し続けているので、もしかして、自分の耳の方がおかしいのかもしれないと思い、咄嗟に受話器を受けていた左耳から右耳に変えてみると、驚いた事に、鮮明に相手の声が聞こえてきました。
その時、私は普通に話をしながらも、少しずつ血の気が引いてゆくのがわかりました。
昨日まで全く問題なく聞こえた左耳が、突然聞こえなくなってしまうなんて… 一体何の病気だろう、このままベートーヴェンの様になってしまうのか… 悪い想像が膨らみ、少し恐ろしくなってきました。
電話を終えた後も、そのまま座って考え込んでしまっていたのでした。
当時のパートナーが仕事から帰宅すると、顔色の悪い私を見て、「どうしたの? 何かあった?」、と尋ねるので、真っ先にその事を告げました。
「聴覚は音楽家にとって生命の次に大切なくらいなのだから、とにかく早く診てもらった方が良い」、と彼は深刻な顔で言いました。
はじめは、日本語にも対応できる、パリ郊外にある私立の病院に行ってみようかとも考えましたが、彼の父親は心臓外科医でしたので、フランス国内のあらゆる科の優れたドクターを知っているというので、早速事情を話してもらい、父親が勧める先生の病院の受診予約を取ってから、伺う事にしました。
数日後、病院ではまず聴力検査を受け、確かに左耳は聞こえていないという結果を伝えられました。
診察をして頂いた所、ヨーロッパではあまりする習慣がないという耳掃除を、私が綿棒や耳かき等で日頃行っており、耳は清潔に保たれている、またこれと言った特別な病気も考えられないが、「まあ留学生活は大変な事も多いだろうし、日々のストレスもあるでしょうから、そうしたものから生じた難聴かもしれませんね。まずは試しに耳の洗浄をしてみましょうか」、という事になりました。
それは、耳から洗浄液を勢いよく流し込み、文字通り耳をしっかりとクリーンにするという治療です。
この様に言うと悪いですが、いささか荒療治(?)にも感じられる治療で、先生は「鼻もだいぶ痛くなりますが、ちょっとの間、我慢して下さいよ」、と仰いました。
さすがに耳の奥に液体を流し込むのですから、その手技の間は、耳と鼻の痛みに激痛が走り、まるでプールで溺れかけた時の様な、呼吸の苦しささえ感じました。それを、両耳に施され、時間としては数分程度でしたが、何十分間の様にも思え、しかし何とか頑張って耐えました。
その治療の後は、どうなったでしょうか… なんと、全く聞こえなかった左耳が、以前の様にクリアに聞こえる様になったのです!
耳には本来自浄作用があり、日本人の様に、敢えて耳掃除をする必要はないそうなのですが、中には耳垢の性質のせいで、耳の奥の方に貯留してしまう人がいる、との説明を先生から受けました。結論としては、耳垢栓塞(じこうせんそく)という診断がなされました。
治して頂いたお礼を申し上げながら、「本当にベートーヴェンみたいになったら、私はこの先どの様にして生きてゆこうかと思い、悩みました」、と伝えると、「いや、そこまで悲観的にならなくとも良かったですよ。だって、第九の様な傑作が生まれたのは、彼の耳が全く聞こえなくなった後なのですから」、と微笑みながら、励まして下さいました。
こうして、私の難聴の症状は一瞬にして改善し、その魔法の様な治療によって、事なきを得ましたが、帰宅する道すがら、心の底から安堵するも、今度は反対に、その時から「両耳が聞こえ過ぎてしまって困る」という、何とも不思議で、そして不快な感覚が続く日々を、しばらくの間、過ごす事になりました。
例えば自らの髪の毛が耳に触れる度に、いちいち「ばさっ、ばさっ」と、まるで何か大きな物が耳にあたるかの様な、大音量となって聞こえてしまうのです。髪の毛1本1本のさらさらと揺れる音が、こんなにも大きく聞こえるとは…! クリーンになり、まっさらな耳は、いわば聴覚が冴えすぎた状態となったためで、それは生まれて初めて体験する感覚でした。
もしかすると、お母さんのお腹の中から出てきたばかりの赤ちゃんの耳は、周りの音もこういう風に聞こえているのかしら… 等と想像しながらも、耳垢も要らないものと言ったイメージがありますが、全くなくなってはしまっては少し困るものだ、と知り、大変勉強になった次第でした。
2024.06.30 23:45
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