コラム

間(ま)に見られる日本の文化

多くの子供達がそうである様に、私自身も習い事のひとつとして、幼い頃に書道教室に通った経験があります。
「大」や「水」等の画数の少ない漢字を書く時には、一枚の半紙という空間の中で、一体どの様にしてバランスを取るべきなのか、考え込んで緊張しながら書いていた事、また、はねやはらいの然るべき方法がわからず、思う様な字がなかなか書けなかった事等を、今でも鮮明に思い起こします。
とりわけ、はらいに関しては、お習いした先生がお手本を示されながら、「もう少しためて、時間をかけて丁寧に」、という事を毎回仰るのですが、気が短い性格が災いしていたのでしょうか… どれほど注意しても、どの様な訳か、さっと早く筆を動かしてしまうのです。
書道の基本にある、この独特のテンポ感と言うのでしょうか、結論を急がない日本の文化を象徴する様な何かは、私の持っている気質と相容れないのだと理解し、当時はピアノをさらいながら、おそらく西洋音楽を学ぶ方が性に合っているのだろうと、子供ながらに悟ったものでした。
ただ、書かれた文字も、楽器を奏でる時の音と同様、人の心理状態を如実に表している所が共通しており、それが大変興味深いと感じていました。

この様に、筆で書くほうに向いていない事は早々に判明しましたが、大人になってからは書展に足を運ぶ機会もあり、美しい芸術としての書を鑑賞する事で大きな力をもらったり、また演奏へのインスピレーションが沸いたりする等、心が豊かになる素晴らしいひとときを過ごさせて頂く様になりました。
昭和から平成にかけて活躍された、榊獏山先生の大変個性的でアーティスティックな作品や、アール・ブリュットの概念を変えたと言っても過言ではない、人の生命の尊さをも感じさせる金澤祥子さんの圧倒される力強い書には、魅了され続けています。

少し触れた「ため」についてですが、これは書道に限らず、邦楽にも見られる様に感じます。つまりは「間(ま)」という事です。
例えば、尺八とお琴による「春の海」を聴きながら、旋律や伴奏のフレーズの終わり方に着目してみますと、おそらく西洋音楽の楽譜の記載方法には無いであろう、休符とは異なる何か、フレーズの最後の音にすぐには到達しない、ほんの一瞬の空白と言うのでしょうか、或る種の間というものが、全曲を通して存在するのです。
そしてその間こそが、この音楽のエレガントさや奥ゆかしさを引き出しているという事に気付き、回り回って私の「はらい」が非常に誤ったやり方であった事が納得できたのでした。

毛筆に限らず、万年筆でもボールペンでも、文字を書く時に一文字ずつに丁寧に気を配れる事、それは心の在り方にも関係するでしょうが、年齢を重ねてきた今では、その「はね」も少しは穏やかに、そして「ため」はもっと集中してできるかもしれません。
いつかまた、心を整えるという意味でも、筆を握って静かな気持ちで文字を書いてみる事ができたらと願っております。

2025.05.17 23:15

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