コラム

西洋美術に寄せて

私は、最近時間が出来ると、朝に好んで美術館へ足を運ぶ様にしている。
話題の展覧会は、いつも人であふれ、絵を見に行ったのか何なのかわからない様な感じになるが、午前中はまだその様な事もなく、ゆったりと心ゆくまで鑑賞をする事が出来る。
とりわけ、ブリヂストン美術館のモネやターナーの前で過ごす朝は、至福の時だ。

私の絵画に寄せる思いは、幼い頃祖父に連れて行ってもらったピカソの展覧会から始まる。
亡き祖父は、東京芸大で油絵を学び、長らく美術の教師として人生を送った。
子供ながらに、ピカソのポートレートを見て不思議に思い、「どうして顔がああいうふうになるのか」という質問をすると、祖父は「それは顔の前と横からを同時に描いているからだよ」と教えてくれた。
キュビズムも何も分からない子供に、平たく説明をしてくれたおかげで、ピカソの絵に興味が沸いた。
祖父は、この様に尋ねると、納得出来るまで何でも物事を教えられる達人だった。

この体験のおかげで、難しい絵画でも、その背景にあるものやコンセプトを理解すれば、もっと身近に感じられるのだと知った。
前衛的な作品でも、実際見ずして、食わず嫌いの様になる事だけは避けたいと思った。

祖父のピカソ好きに影響され、これまでパリやバルセロナのピカソ美術館、また東京で行われたピカソ展を幾多となく訪れる機会に恵まれた。
ピカソの歩んだ人生と共に、変化するコンセプトに伴って、移ろう色彩感や絵筆のタッチ等を目の当たりにすると、彼自身そのものを見ている様で、それは強烈な印象を植えつけられた。
生涯、創作というメチエに携わり、自らが燃料となって炎を燃やし続けた天才画家ピカソの軌跡が、そこには在る。

音楽の演奏は、楽譜に書かれた音符が既に在って、それを音として再現する再現芸術であるのだが、創作に携わる人の生みの苦しみは、それは想像を絶するものであろう。
例えば、ゴッホの絵の、キャンバスに何層も重ねられた絵の具の厚みや筆圧を間近にし、アーティストの心理状態、いわば感情の高揚を感じ取る時、私はいつも本当に正しい解釈をして、作者の思いを演奏で伝えられているのかという問いと共に、自責の念を抱かずにはいられない。
魂を込めて作られた偉大な作品を前にして、音楽に託された真意を伝えようとする演奏者の存在は、あまりにも無力で小さい。

さて、今年も残り僅かとなったが、来年はまたどの様な絵画に出会い、インスピレーションを授かれるか・・・ 今から期待をして待っている。

2010.12.27 21:10

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