コラム

「冬」に聴く音楽

今冬は、例年に比べて寒さが厳しく、全国的に雪の日が多い。
寒いのが不得手な自身にとっては、あまり喜ばしい事ではなく、本番がある日には、どうやって冷えきった指を温めたら良いのか苦労している。
容赦ない自然の、冬の厳しさである。

ヴィヴァルディの「四季」を筆頭に、季節を表現した音楽は数々存在するが、ほぼ全作品において一年を通して鑑賞を楽しむ事が出来ると言えるであろう。
その中でも、やはり例外はあって、冬にだけ特別聴きたい音楽が、個人的にはある。
それは、シューベルト作曲の「冬の旅」だ。
ドイツリートを最高水準にまで極めた彼の三大歌曲のひとつとして、作曲家の成し遂げた偉業を呈する作品である。

歌曲「美しき水車小屋の娘」では、主人公は最後に死というものにいわば逃避した形として結末を迎えるが、この「冬の旅」では、もはや死ぬ事さえも許されず、人間の生は否応なしにこの世に生まれた者の前に存在し、そこからは逃れられないという、実存主義について描かれ、大変深い解釈が必要とされるテクストが用いられている。
24のピースに込められた、詩人ミュラーとまた作曲家シューベルトの心象風景を表したこの哲学的で壮大な作品によって、シューベルトはドイツリートの世界に金字塔を打ち建てた。

それだけに、聴くのもそうだが、増してや演奏するのは、若いうちは大変畏れ多いという気がする。
それは、ピアニストにとっては、まるでベートーヴェンのピアノソナタ全曲を演奏する時の心構えと同じ気持ちで挑む位の事だ。
音楽が成熟していないうちに「冬の旅」を演奏をする事は、遭難覚悟でエベレストを一歩ずつ登るのと同じ様な事である。

友人のピアニストは、周囲に反対されつつも、大変若い頃からベートーヴェンのピアノソナタ全曲演奏をリサイタルで行い、円熟した年を迎えた現在までに、何度かこのプロジェクトを成功させてきた。
「全曲を弾き終えた後には、自分が再び生を受けて、毎回新しく生まれ変わっている様な気がしている」と言っていた。
だから、私にも「未熟でも何でもまず公開で演奏してみる事が大切」とよく唱えている。
「偉大な作品を前にして、決してひるむ事はない」と。
恐らく「冬の旅」も、これに匹敵するのではないかと私は考えている。

この度、新年から「冬の旅」に取り組んでいるが、この作品ほど歌とピアノが織り成す世界が深淵で、また容赦ない厳しさを持って奏者の前に現れてくるものは、大変稀有であると思う。
一音弾いてみては、自分の出している音にがっかりする。
現段階では、描かれている風景を全て音に表現出来る所まで到達しないもどかしさでいっぱいだ。
それでも「冬の旅」に挑み、作品に対する自身のあくなき追求の長い旅-終わりなき永遠の旅-が今年から漸く始まった。

2011.02.09 22:50

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